

日本側が国務長官を誑かしてハルノートを発出させた
既存保守論壇の定説では、日米開戦を回避する為に日本側外交団(野村・来栖大使)の真摯で粘り強い努力も空しく、昭和16年11月27日に米国側からハルノートが突きつけられ、米国の罠にはまり大日本帝国は窮鼠猫を噛むかの如く対米開戦に踏み切ったというものですが、札幌学派の研究ではこれと真逆の結論、日本側がハルノートを発出させたという事実を導き出しています。
ハルノートの中身を読み解くと、それは支那大陸の権益確保に後れを取った米国が重慶蒋介石と手を組んで日本軍を支那大陸から追い出し、大日本帝国が日清日露戦争以来築き上げてきた日本権益を横取りしようと企む外交文書でした。
このような外交文書を大日本帝国が受け入れることなどありえません。なぜなら、大日本帝国はその発祥からしてアジア植民地の解放独立による自存自衛を目指していたからです。 (※上記1~6の論考で証明してきたように大東亜解放の為の事象経緯の中で、アメリカから追い詰められ騙されて開戦に踏み切ったという理論は成り立たないのです。)
当時の日本軍は援蒋ルートの遮断を口実とした、東亜全域における欧米植民地の解放独立を目指しており、“ハルノート”の受領は開戦する口実としては渡りに船であったと思われます。
そこで札幌学派の提唱するアジア解放史観から「機密戦争日誌」を読み解いていくと
参謀本部第二十班制作
機密戦争日誌 昭和16年10月31日付
(※抜粋)午後部長会議夜に至る。「即時対米交渉断念 開戦決意を十二月初頭戦争発起、今後の対米交渉は偽装外交とす」の結論なりとあるのです。
この10月31日の会議で対米開戦は決定し時期は12月初頭と決まりました。11月以降、日本側外務省(野村・来栖)の交渉は偽装だったのです。外交では騙しの偽装工作をしつつ、軍の方では開戦準備を着々と進めます。
そして
機密戦争日誌 昭和16年11月27日(※米国側からハルノートが発出された日)
(※抜粋)米の回答全く高圧的なりしかも意図極めて明瞭、九カ国条約の再確認是なり。対極東政策に何ら変更を加えたる誠意全くなし。交渉は無論決裂なり。これにて帝国の開戦決意は踏切容易となれりめでたしめでたし、これを天祐と云うべし、之により国民の腹も堅まるべし国論も一致し易かるべし。
何とハルノートを出されて開戦のお膳立てが出来たと喜んでいるのです。めでたし、めでたしと機密文書にあるのが痛快ですね。一点付け加えておきますと、ハルノートの発出は昭和16年11月27日ですが、真珠湾を攻撃した連合艦隊は11月26日に択捉島の単冠湾をすでに出発していました。
まだ続きます。
機密戦争日誌 昭和16年12月6日(※真珠湾攻撃の2日前)
(※抜粋)国民は未だ知らず、軍また然り部内の一部また然り、戦争急襲は必至、真に世界歴史に特筆せらるべきものならん。
野村・来栖「ハル」会談終わる。偽装外交着々成功しつつあり。
真珠湾攻撃の直前の状況ですが、秘密裏に真珠湾、アジアに向かっており、偽装外交は米国にバレていないようです。
当時の状況を説明しますと、ハルの方は開戦までの時間を稼ぎたかった。理由は米軍の準備が十分に整っていなかったからです。一方日本側はすでに支那事変の勃発により四年以上にわたって臨戦状態にあり、主敵を重慶蒋介石軍から米軍へ切り替えることは難しくない状態です。
日本側が順調に秘密裏に開戦準備を整えている同時期に野村・来栖大使はハルという欧米白人特有のアジア人に対する侮蔑、差別、傲慢を逆手にとり、日本側が怖気づくような高圧的な態度に出た方が有利に進むと思わせる裏工作をして、ハルノートを発出させたのです。そして、それは日本にとって米国からの宣戦布告とも言える開戦の為の大義名分となったのです。米国側に日本のスパイを忍び込ませていたことも機密文書から分かっています。
当時の日本人は欧米白人などなんら恐れておらず、アジア解放と自存自衛の為に強かに、そして崇高な意志を持って臨んでいたことが分かります。白人欧米列強など成敗してやるという意気込みさえ伝わってきます。戦後これらの評価が捻じ曲げられたのは、欧米白人にとって有色人種に誑かされて開戦という罠に嵌められた、しかもその罠は世界の有色人種を白人からの人種差別、植民地支配から救う為だったという事になると、米国が立ち行かなくなるほどの恥部になるからでしょう。
※ハルノートに関しての詳しい研究は安濃豊著書「ハルノートを発出させたのは日本か」に詳しくあります。