

支那事変への深入りはアジア解放の序幕戦であった
戦後の東京裁判史観の歴史教育では、支那事変は日本が支那大陸を植民地化しようとした戦争だったと教えられ、対して既存保守論壇の論調は、当時の日本軍は支那との協定に基づいて合法的に駐留していたが、定見の無い近衛内閣と無能な軍部が対応策を見いだせないままズルズルと引きずり込まれたというものです。
そのような支那事変に対する戦後の歴史観を見事に吹っ飛ばしてしまったのが、稲田正純大佐の外務省機密文書の発見です。(発見者:昭和史研究家―札幌学派 八巻康成氏)
日付:昭和13年6月20日(開戦の2年前)
其一 戦争指導に関する根本方針
一、本事変の本質及び目的
「今次事変は満州事変の収束を意味すると同時に、アジア解放の序幕戦とするべき性格を有するものである」(要約)
この資料から分かることは、支那事変が大日本帝国の念願であった大アジア主義実現の口実を与える事となり、以後、帝国陸軍はアジア解放の口実とするために支那事変を意図的に拡大深入りしていったという事実です。
この戦略の全体像は、
・日本は蒋介石にロシア共産主義からの脅威(中国共産党)に対して手を組んで戦おうと何度も交渉してきたが、聞き入れられず逆に危害を加えられていた。
・支那での敵は蒋介石であり、蒋介石のバックにはアメリカとイギリスがいた。
・蒋介石を援護するために、東南アジア経由で武器、物資などが送られていた(これを援蒋ルートと言います)
・東南アジアにある援蒋ルートを潰すためには東南アジアを支配していた、欧米列強を排除する必要がある。
・東南アジアを支配する欧米列強を駆逐する為にも、支那事変は拡大していく必要がある。
・東南アジアから欧米列強を掃滅することはアジアの解放と独立につながる というものです。
大日本帝国は開戦の前から明確にアジア解放を考えており、そして支那事変を口実に使い、この稲田大佐の立案した戦略通り、アジアを見事に解放、独立させてしまったのです。当時の日本にはこのような大それた戦略を立てる事が出来る頭脳があり、それを実現できる国力と人材がいたという事なのです。我々の先人はすごいとしか言いようがありません。
※稲田文書に関しての詳しい研究は安濃豊著書「アジアを解放した大東亜戦争:連合軍は東亜大陸では惨敗していた」に詳しくあります。